運河の端から、私は沖の島影が揺れるのを見ていた。暗くなり始めた湾が騒いでいる。この海はどこまでも黒い。化学繊維の燃える匂いが吹きつけてくる。記憶が、箱詰めされた冷凍食品のように味を失い固まって海に浮かんでいる。この海のどこかにもうひとつの海があって、そこでは言葉が意味を持たなくなっているかもしれないと、見慣れた男が歌う。汗に汚れきった夏を一束の風が吹き飛ばしていった。
言葉を連ねる。錆びつかないうちに闇雲に言葉を連ねる。昔、私は言葉が信じられなくて、黙り込んでいた。静謐な夏、残虐な夏、浮揚する夏、それらが雑駁に躰を包み、海風が耳の後ろから舐めるように吹いてきた。立ち上がった海が倒れ込み、鬼百合のように開いた。汗でふやけた掌の上で記憶が踊る。
苛烈な夏があった。青春映画を地で行くように、金色に輝く放恣。傲慢。堕落。私はいつも、どこかで聞いたような言葉を真顔で口にした。暁の空を烏が飛び落下する。頭蓋に包まれた脳が誰かに呼びかけようと蠢く。足下が寒い。足下が緩い。
沖に延びる細い岬を縦に切り裂いて一本の道があった。道はゆるやかにカーブして海に突き刺さっている。昔、その道は波が洗い、魚が落ちていた。二十数年がたち舗装された道に陽炎が立ち、頭の中を凍った影が動いていくのが見える。日焼けした人生を後押しするように葬送行進曲が流れてゆく。
その冬、Rが死んだ。政治と経済と宗教の話ばかりしていたRの声がずぶずぶと甦ってきた。私は足掻くように、あの街を歩き続けた。満ちてきた血が噴き出し、はじけて無くなった。暗闇と街の和音があのとき一条の光になって私の瞼をかすめて過ぎた。夜のように黒い眼をした女が震えながら歩いていた。すれ違う女はみんな尖った顔をしていた。
雨が薄暗闇に斜めの線を引いてゆく。いつだったかこんな驟雨をわくわくしながら見つめていたような気がする。私は今、叫びを呑み込んで眠る。雨のなかで雨が舞うのだ。海面に、わずかなさざなみが立った。水に映った顔をのぞいている。見覚えのない顔が笑っている。揺れている街の灯が無口な色になった。
夏が来た。蝉がわんわんと鳴き、記憶が崩れていく。
目の前は、燃えるような赤い海だった。プランクトンの集合体が私を囲んでいた。彼方からＲの笑い声が聞こえてくる。いつの間にか私は海の底にいた。ゆっくりと潮が動いてゆく。濡れている躯を見つめている。内部で何かが飛んだ。暗い赤だった。海底に城があった。そこでは硬い潮流が私を押し流そうと動いていて、私のようなものが必死で抵抗していた。口の中に泥のような砂が流れ込んでくる。声を出そうとすると吐き捨ててきた媚が舌を包んでありふれた愚痴に変わった。
閉じた瞼の裏に、鏡のように凪いだ海があった。目の奥のそのまた奥で小さな嵐が始まろうとしている。もうすぐ私は呑み込まれる。
きのう、私は痩せた。獣に肉をかじり取られるように。そしてどこまで行くのだろう。あそこまで。向こうまで。きのうまで？ 錆びついた朝から着飾った夜が旅立つ。誰かが私の名前を呼んだ気がする。汗まみれの五月をひっくり返して、はじけ散る三十歳。足下を一匹の季節が走り去って行った。
また夏が来る。再び夏が来る。
濾過された記憶が透明になる。 |
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